以前にも雪国の冬空の話をした。分厚い雲がひと冬中頭の上に垂れ込める空。だけどそのおかげで地表の熱が逃げず、湿度も保たれるのだ、と。
首都圏で暮らして16年になるが、この地方の冬空は抜けるように高い。放射冷却でけっこう冷え込む。そしてたぶん、本来なら冬の星座が頭上でひかりかがやいているに違いない。
川崎では駅近の繁華街に住んでいたので、一年を通して星が見えにくかった。四谷は都心ではあっても周辺が住宅地なので、川崎よりは星が見えるとは言え、まぁどんぐりの背比べ程度。
で、考えた。
有名な旧約聖書創世記。75歳で故郷を出て旅を始めたアブラハム。神の導きを信じた「信仰の父」と呼ばれる彼には約束はあってもその実現の証拠たる子どもがいなかった。そしてすっかり年老いる。その彼に神が言う。「恐れるな、アブラムよ。…あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」。だが彼にその言葉は届かない。すると神は彼を外に連れ出してこう言った。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」。
ところが、だ。川崎でも四谷でも、星の数を数えることはいとも簡単なのだ!
もちろんわたしは「満天の星空」を経験している。肉眼で天の川だって見える生活をしてきたこともある。だから「天の星=数え切れない」というのは実感として良くわかる。だけど、世界には天の星が片手にさえ余るくらいしか見えない人もいるに違いないのだ。彼女ら彼らにこのアブラハム物語は伝わるだろうか。もちろん話し手の力量が問われることでもあるが…。
わらべ歌がどれだけ素晴らしくても、それが生活の座に根ざさなくなった今、その良さは語らないと伝わらない。逆説的に言えば、だからこそ古典を学ぶことが絶対必要なのでもある。
階下から、卒園を控えた子らの歌が聞こえてくる。